和食の歴史

「和食」ユネスコ 無形文化遺産に登録

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2013年12月、「和食」のユネスコ無形文化遺産へ登録された。

米(穀類)・野菜・魚が多くの場合料理の基本素材とされており、寿司および刺身、天ぷら、蕎麦などは日本国内外でもよく知られると共に料理店はミシュランにおける評価も高い。

一方で、オムライスやカレーライスなど洋食の一部でも、日本に定着し一般的に食され日本で独自の発達を遂げている料理は日本国外において日本の料理として扱われることもある。

ラーメンなど中国料理をルーツとする(和式)中華料理や、イタリア料理をルーツとするスパゲッティ・ナポリタンなどについても同様である。

中華料理が「油を使う料理」と言われるが、日本料理の和食は「水を使う料理」と言われる。

「和食」「日本料理」という言葉は文明開化が影響

「日本料理」と「和食」と言う言葉は文明開化の時代に日本に入ってきた「西洋料理」や「洋食」に対応する形でできた言葉。

「日本料理」は石井泰次郎[による1898年(明治31年)の『日本料理法大全』により一般化され、「和食」はそれ以降に現れたものであると見られている。

「和食」の独自の盛り付けルール「ご飯は左、味噌汁は右」

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ご飯は左、味噌汁は右。

日本では古来より左が上位と扱う文化(左大臣は右大臣より上位、など)のため、主食のご飯を左に置くのが正しい。

(「右に出るものがいない」という諺とは別のルールであることに注意)

尾頭付きの魚の盛り付け方は、頭を左、腹を手前側に向ける(ただし、カレイに限っては、頭を左にして腹を上にしたり白い面を表にして腹を手前にしたりする場合がある)。

魚の切り身の盛りつけ方は、魚の種類によって、皮を上にする「皮表」とすべき場合と、身を上にする「身表」とすべき場合がある。

ほとんどの魚は皮表で盛りつける。

したがって、皮を上側、身を下側にして盛りつける(鮭などで薄い切り身となっている場合には、皮を奥側、身を手前側とする)。これに対し、ウナギ、アナゴ、ハモなどは身表とする。

長い食材は、長方形の皿に盛り付ける。

大根おろしや刻みねぎなど、付け合せは手前側に置く(前盛りと呼ぶ)。

奈良時代 中華から勉強中

中国文化の影響を受けていたが、中国から伝わった料理法が日本の風土や産物の中で工夫が加えられ、やがて日本独自の料理も出てきた。

平安時代 貴族「ヤサイ ダサい」

遣唐使の続いた平安時代の初期には、中国の影響を消化しながら食文化は発展していった。唐揚げや唐煮、唐菓子などの料理が食膳に上り、中国風の納豆なども食べられていた。

遣唐使廃止後、国風文化の流れが定着すると、公家の間では食礼式や料理の流派が発達していった。

しかし、貴族の食膳にのぼる料理は、現代のように醤油で味付けされることもなく、出汁を用いないなど、調理技術は未発達で、貴族達は食べる料理に自ら塩や酢などで調味をしていた。

また、野菜を下品な食べ物と見下して摂取しなかったらしい。

更に、仏教の影響で料理の美味いまずいを口にする事をタブー視していたため、栄養面から見るとかなり悪い食事をしていた。

この時代、料理に貢献をした人物としては、光孝天皇の命で新しい料理法(四条流包丁式)を編み出した藤原山蔭が挙げられる。

伝統ある日本料理店では神棚に「磐鹿六雁命」と「藤原山蔭」を祀っている例も多い。

※四条流包丁式 平安時代から始まると伝えられる日本料理の流派。「庖丁式」とも。庖丁道(庖丁式)とは料理に関する作法・故実や調理法などを最も頻用する調理器具の包丁で象徴した呼び名。

鎌倉時代 「喫茶始めました」

鎌倉時代には、禅宗と共に喫茶の風習が広まった。

禅宗の僧が食べていた精進料理が本格的に流入し、がんもどきなどの食品加工技術が伝わった。

精進料理の影響により、大豆加工の技術や野菜料理の技法が大きく発達し、のちの日本料理の方向性を決定づけることになった。禅僧の修行の際の軽食を「懐石」と称していたのが後の懐石料理の語源である。

また、栄西が中国から茶を持ち帰り、懐石と結びついて茶料理が生まれた。ご飯を食べる際に匙を使う習慣はすたれ、飯碗を手で持ち、箸で食べるようになった。

なお、西洋が手づかみ食事をやめた(ナイフ、フォークが定着)のは、18世紀と見られる。

室町時代 「旨い・不味い」と言える世の中へ 出汁の誕生

室町時代に入ると宮中の料理は武家の間にも採り入れられ、食礼式が発達した。

当時は小笠原流などの礼法が盛んな時代であり、料理の流派としては中納言山陰政朝を始祖とする四条流が興り、料理書『四条流包丁書』もが書かれた。

一方、権威が落ちた貴族達は大饗(だいきょう・おおあえ)料理を作る余裕が無くなり、大饗料理は有職(ゆうそく)料理に姿を変えた。

また、足利家には大草流があり、この頃より食作法がやかましく言われるようになり、1人分の料理を膳の上に組むいわゆる「本膳の形式」による料理が形成された。

この儀礼的な料理に対して茶道から生まれた趣味的な料理が懐石料理であり、この二つが日本料理の主流を占めるようになった。

仏教の「食事の味を論じてはならない」という文言の解釈が変わり、禅寺では料理や食事も修行の一環とみなされるようになり精進料理が発達した。

禅寺の食のタブーを克服するため調理技術が発達し、出汁の概念が生まれた。

大豆の加工技術も禅寺から興ったものである。足利義政は窮屈な、接待での食事の息抜きとしてよく禅寺への用事がてらに食事をし、これが現在の日本料理の基となった、とされる。

また、安土桃山時代に来日したジョアン・ロドリゲスは著書『日本教会史』の中で支配階層が身に付けるべき「能」(教養)として「弓術・蹴鞠・庖丁」を挙げている。

室町末期から安土桃山時代には南蛮船により南蛮料理や南蛮菓子(カステラなど)が伝わってきた。

江戸時代 天ぷら、寿司、蕎麦・・・日本 始まった!

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天ぷら、にぎり寿司や蕎麦などの屋台による料理が発達した。寿司専門料理店ができたのは江戸時代。

また、都市部を中心に発達したお留守居茶屋などの料亭の料理は、酒を飲みながら料理を食べる形式で本膳や懐石のように作法にあまりとらわれない現在の最会席料理が始まる。

鰹節や昆布で出汁をとる技術が高度に発達し、砂糖の普及により、甘い和菓子が食べられるようになった。

陶器、磁器を使い、凝った絵付けを施した食器が広く普及した。またももんじ屋などでは薬食として牛肉など肉食も行なわれた。

江戸時代中期には、輪違い大根に代表される「見立て」という飾り包丁の技法が発達した。また、この時代には黄身返し卵などの珍料理が生み出されている。

元禄年間以降、町人の手による江戸料理が発達し、富裕な階層を相手にした高級料亭から、蕎麦や丼物といった庶民の味まで、さまざまな食文化が生まれた。

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地方出身の単身者や職人が多かった江戸では、特に、天ぷら・蒲焼・寿司・蕎麦などの屋台や外食産業が栄えた。

諸大名の参勤交代が行われた事などから、江戸の料理文化が日本各地に広がると共に、各地の産物や料理文化の交流があった。

江戸時代から調味料として醤油が盛んに用いられるようになり、江戸近郊では濃口醤油が大量生産されるようになった。

江戸では井戸水に塩分が含まれていたため、飲料水には江戸の六上水の水が用いられた。

こしょうなど香辛料も工夫して利用されるようになり、芳飯も鶏飯など異文化も取り入れられ、おじや、ねぎぞうすいも食べられるようになっている。

関東の料理 濃口醤油を発明!鮮度と産地を重視する江戸料理

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江戸料理と呼ばれる鮮度の良い地元の材料を使用した料理が独自に発展していった。

『絵本江戸風俗往来』に「江戸市中町家のある土地にして、冬分に至れば焼芋店のあらぬ所はなし」と焼き芋屋が大人気となるほどの田畑の豊かな農作物以外に、特に江戸前など海の幸に恵まれていたため、刺身や握り寿司のように新鮮な魚介類を用いた料理が大きく発展した。

江戸湾内で豊富に採れる魚介類は江戸前の名で呼ばれ、近海で穫れるマグロなどの刺身は献立に欠かせぬものとなった。

こういった中で鮮度と産地を重視する江戸料理が生まれた。

「本膳料理」こそ日本の正式な膳立て!会席料理は明治以降

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「食事をとる」という行為自体に儀式的な意味合いを持たせているのが特徴。

室町時代に確立された武家の礼法から始まり江戸時代に発展した形式。

しかし明治時代以降ほとんど廃れてしまい、現在では冠婚葬祭などの儀礼的な料理にその面影が残されている程度である(婚礼の際の三々九度など)。

更に、肝心の料理店自体が用語の使い方を誤っている例がしばしば見られる(単なる婚礼や法事の会席料理や仕出し弁当に「本膳料理」という名前を付けている例がある)。

関西(京料理)の料理 物流拠点「天下の台所」

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京都、大阪の料理は「上方料理」と呼ばれた。(落語も関西は「上方落語」)

茶会に出す料理として千利休らによって考案された会席料理は、懐石料理、割烹として京都と大阪で引き続き発展した。

京都の食文化は、朝廷料理、寺院料理などの影響を受けていた。また、町人文化として発展した京漆器や京焼が、料理に彩を添えた。

盆地の京都は地下水に恵まれたため京野菜や豆腐の生産に適してが、海産物に乏しかったため、干しダラや身欠ニシンなどの乾物や保存食が用いられた。

長期の輸送に耐えられる押し寿司や、生命力の強い鱧(はも)を用いた料理などが発展した。

経済、物流の拠点だった大阪では、瀬戸内の豊かな魚介類や近郊で作られた野菜だけでなく、全国の産物も集められ「諸国之台所」と評された。

特に、加工した昆布を用いただしの文化が、船場を中心に発展した。

一方で、米とともに全国に輸送された京都の工芸品、灘の酒、堺の刃物などは、「下りもの」と呼ばれとりわけ江戸で重宝された。

明治時代以降 食肉解禁!本式「本膳料理」の衰退、ちゃぶ台が登場

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明治になると、肉食が解禁され牛鍋などが登場した。一方、料理の流派は包丁式を残し衰退した。

寺院を主な対象とする精進料理・茶人を主な対象とする懐石料理は独自性を保って現在まで続いているが、本式の料理とされていた本膳料理は衰退した。

この時点で伝統的な日本料理の主要な業態は、会席料理を主とする料亭や高級旅館に移ったと言える。

明治期には西洋料理が主に社交の手段として日本国外の人との交渉のある社会階層で食べられるようになる。

従来の日本料理とともに西洋料理や和風料理がレシピに取り入れられ(帝国陸軍の軍隊調理法等)、退役軍人を通して日本国外の食文化が民間に広まっていった。

都市部の家庭ではちゃぶ台が使われ、それまでの家父長制的な銘々膳の作法から、食事が家族だんらんの場として認識されるようになっていった。

昭和時代 米国「小麦の輸出先見つけた!」給食で洗脳完成

戦後になると、物資不足の中、アメリカからの食糧援助として小麦粉等が大量に輸入され、学校給食でもパンが提供された。

「奥様は魔女」「名犬ラッシー」などアメリカのドラマでのパン食・洋食風景の日常がテレビで流れたこともあってパン食が米食に並ぶほど普及していき、パンも日本の料理の庶民一般的な食物となっていった。

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